代表者プロフィール

 ■ 石田 恵介(いしだ けいすけ) 1975年生まれ
 ■ 家族構成:妻、息子、娘の4人家族
 ■ 趣味:コーヒーを煎れること
 ■ 特技:スキー(元モーグル選手)
       フットサル(年齢の割には動けます)
       データベース構築(MS.Access+ASP、LAMP)
       将棋(父が大山名人と対戦経験あり)
       オセロ(コンピューターには負けない程度)
       料理(パスタ、丼もの、居酒屋つまみ系)
 ■ ストレングス・ファインダー
      最上志向、目標志向、未来志向、個別化、戦略性
 ■ 好きな食べ物:餃子、焼き鳥、すし、焼き肉
 ■ 嫌いな食べ物:カリフラワー
 ■ 自分の性格:一言で言うと「負けず嫌い」


幼少期~学生時代 編

 1975年   東京都大田区に生まれる。
 
 とにかく落ち着きのない子どもだったらしいです。そのため、自分の息子も落ち着きがないのですが、怒るに怒れません。
1981年   東京都大田区立南六郷小学校入学

 小学校時代は教育熱心な母親の影響で、日曜日から土曜日まで全て習い事の日々。日月木土で学習塾、火金がスイミング、水が習字、そのほかに通信教育で公文。ピアノも習ってたな。
 当時では少数派だったお受験組でした。自分の受験というより親の受験でした。当時好きでやっていたのはスイミングのみで、あとはイヤイヤ。特に学習塾は嫌でした。「塾なんて行かない!」て言ったら母がキレちゃって、しばらく口をきいてくれませんでした。そんなわけで母親の顔色を伺いながら通っていただけだから、授業なんか真面目に聞かなかったし、テストもできる子の隣に座ってカンニング。当然成績はよかったので親は満足。でも、そんな勉強方法で中学受験が成功するわけもなく、受験した中学校は全滅。2次募集があったところにギリギリ滑り込んだという惨憺たる結果でした。しかも滑り込んで入った私立中学の入学金を支払った後、急遽父親の転勤で引っ越し(笑)。親は笑えなかったでしょうが、今思えば私にとってはラッキーな父の転勤でした。別に私立中学校に行きたいなんて、これっぽっちも思ってませんでしたから。
 こういった経験もあってか、自分の子どもを塾に入れる気が全く起きません。
1987年   新潟県長岡市立南中学校入学

 父の転勤で新潟県長岡市へ。中学時代はサッカーに明け暮れました。寝ても起きてもサッカー。土地柄か東京と違いそれほど受験競争というものもなく、塾ものんびりムード。親も自分だけが一生懸命になっているのがばからしくなったらしく、勉強については口を出さなくなりました。結局、塾もやめサッカーにのめり込んでいきました。サッカーと同時にはまったのがスキー。長岡と言えば豪雪地帯。周りの友人は幼少期からスキーをやっているわけですから、とても上手い(雪国の人が全てスキーが上手かというとそういうわけではないのですが)。仲のよい友人たちはスキーも上手く、触発され毎週連れだってスキー場に通っていました。
 ちなみに、サッカーは、県ベスト8まで進み、個人では県の優秀選手として表彰されました。
 スキーは、サッカーの練習の合間に、毎週滑りに行っていたため、中学卒業時には滑れない斜面はないくらいにまで上達していました。

 中学3年生の時、高校進学のために東京に戻ることが決定し、部活引退後は受験勉強に身を投じました。さすがに中学浪人はしたくなかったので、誰に頼まれるでもなく塾にも通わず必死に独りで受験勉強。そしてもう二度と受験勉強をしたくなかったため大学付属校のみ受験し、なんとか第1志望に合格。
1990年   法政大学第二高等学校入学
 
 父を単身赴任で長岡に残し、家族で横浜に引っ越してくる。高校時代は正月の「全国高校サッカー選手権大会」にあこがれサッカー部に入部。ほぼ毎日サッカー。スキーは年末年始に行く程度。
 スポーツ推薦組が多くいる中、なんとかAチーム入り。試合は出られたり出られなかったりでしたが、1つの目標に向かってみんなが1つになった青春時代でした。
 しかし、3年生最後の選手権予選、急性虫垂炎で入院。中途半端な引退を迎えたのでした。
1993年   法政大学法学部政治学科入学

 大学入学とともに独り暮らしを始める。実家から通えない距離ではなかったのですが、母の教育方針もあり、アルバイトで生計を立てながら大学に通いました。
 高校の同級生で立ち上げたサッカーサークルでサッカーやフットサルを続ける一方、冬場はスキーに。ちょうどこの頃、モーグルの存在を知りました。

 就職は公務員と決めていたため、サッカー・フットサル、スキー、アルバイト、(学業)、の合間を縫って大学の図書室や地元の図書館などで公務員試験の勉強。多忙ながらも充実した大学生活を送ることができました。試験も独学で無事合格し、当時独り暮らしをしていた北区から内定をいただきました。
 


公務員時代 編

1997年   東京都北区役所に入庁。教育委員会に配属され区立幼稚園担当を3年間勤める。少子化の折、区立幼稚園の休園業務を経験。共働き世帯の増加に伴い保育園ニーズが増加する一方、園児数が減少する幼稚園。勤務した3年間で10園あった区立幼稚園は7園にまで減りました。園児数が10人を切るような状態の幼稚園に「1人でも園児がいるなら幼稚園は残すべき!」という保護者の声に対し、「税金の効率的配分を考えても休園はやむを得ない。1人でも園児がいるなら残せなんて言うのは親のエゴだ」と考え、粛々と休園業務を進めていました。
 しかし、わが子が通う予定の小学校の児童数が急増し、いきなり隣の学校へ通えと役所から言われた今になって、そのときの親御さんの切実な気持ちが理解できるようになりました。当時は保護者の切実な気持ちを理解しようとする気持ちが全くなかったと同時に、実際そういった立場に立たないと、本当の人の気持ちなんて理解できないんだということを実感しました。
 また、社会人になって初めて、パソコンを使い、その利便性に感動したことを覚えています。特にデータベースの構築に興味を持ち、幼稚園保育料の台帳管理システムを1年かけて独自に開発しました。そのシステムは10年たった今でも動いているとかいないとか。
2000年   特別区職員研修所(23区の合同研修機関)に派遣される。2年間、新人研修から管理職研修まで幅広い層の研修を担当する。同じ役所ではあるが他区や東京都の職員との交流もでき、視野が広がりました。
 ここではじめてコーチングと出会い、人とのより良いコミュニケーションを意識し始める。事務局という立場ながらおよそ10回の講義を聞き、コーチングスキルが身についた気になる。
 また、興味を持ったプログラミングスキルを磨き、通常業務をこなしつつも、研修管理システムの開発プロジェクトにアサインされ帳票類の開発を担当。業務改善に貢献できました。
2002年   区議会事務局に異動。旧態依然とした体制に戸惑いながらも、得意のITスキルで事務改善を進める。
 議会とは前例主義の世界であり、過去何をしたかが大変重要になってきます。当時は紙で保存された過去の事例が数百件ありました。そこから該当する事例を探し出し、今に適用するという方法をとっていました。そのため、該当事例を探し出す作業が半日がかりでしたが、この探索作業をブラウザを使って数秒で検索できるシステムを開発。残業削減に大きく貢献できました。
 加えて、グループウェアが導入されていない時から独自のグループウェアを開発し、役所内では早い時期から情報共有を進めてきたり、議事録を検索するシステムや議会中継のインターネット放映など、住民向けのサービス向上策を進めるなど、この5年間で事務レベルの改善を大きく進めてこれました。
 ここでは、上司と同僚に恵まれ、多くのことにチャレンジさせてもらえました。また、常にチームで仕事をしているという一体感を感じながら仕事ができました。役所にいながら「変化」を体験し続けた5年間でした。私の役人時代の中で最高のパフォーマンスを上げていた組織だったと思います。
 2007年   健康いきがい課に異動。元気な高齢者の方々向けのイベント開催にあけくれる。
 おどろいたのは、定年退職をした男性の方々が大勢、地域で活躍していること。また、「誰かの役に立ちたい!」という思いで、自らのためだけではなく他人のために尽くしているボランティアの方が大勢いることでした。
 ゆっくりダイエットを支援するグループ、禁煙できない方をサポートするグループ、男性だけの料理教室グループ、ウォーキングを通じて健康づくりを進めているグループ、健康体操グループ、健康麻雀グループ・・・・など。
 感じたことは、60代・70代は「おじいちゃん・おばあちゃん」とは呼べない!ある意味20代・30代より元気な方がたくさんいました。

 職歴は上記で述べたとおりですが、プライベートでは、とにかく好きなことをやってきた11年間でした。特に、オフの時間はスキー、サッカー、フットサルを思う存分できました。結婚をし、二人の子どもに恵まれ充実したライフスタイルを送ることができました。
 

モーグル選手時代 編

 私とスキーの出会いは、中学入学と同時に父親の転勤で東京から新潟県長岡市に引っ越した年でした。

 周囲の友人は幼少期からスキーをやっており、当然私より上手い。これが負けず嫌いの私のハートに火を付けました。毎週、上手い友人のあとをくっついて滑っているうちに、我流ながらも1年でパラレルターン、2年目でウェーデルンをマスター。中学3年間でほとんどの斜面を滑れるようになりました。

 高校3年間は、サッカー部が忙しく年末年始に1度、行かれるか行かれないかでした。

 大学時代は、基礎スキーで1級をとりたかったのですが、受験方法や周りにそういう人間がいなかったため、結局受けずじまい。そんなとき出会ったのが「モーグル」でした。大学3年の時だったと思います。

 それからスキーと言えばモーグルでした。はまりました。それでも学生という身分だったため、滑走日数は年間15日程度だったと思います。

 生活がスキー中心となったのは、就職した年でした。安定収入を得て経済的に余裕ができたため、給与のほとんどをスキーに宛てました。選手登録をし、公認大会にも出るようになりました。

 目標は全日本選手権出場。

 それからは、サッカーやフットサルも止め、ひたすらモーグルに打ち込みました。シーズンオフは毎週ザウスとスノーヴァ、冬はスキー場。年間滑走日数は60日を超えていたと思います。週2回は定期的にジムに通い、モーグル用の身体を作りました。

 公認大会は、毎年1歩ずつではありましたが、成績を残せるようになりました。ポイントも獲得できるようになり、他県の大会にも出られ、全日本選手権出場が夢から一歩手を伸ばせば届くというところまできたところで・・・

 半月板損傷、前十字靱帯断裂

 2年連続の手術、リハビリ生活を送る羽目になりました。どん底の2年間でした。(詳しくは「前十字靱帯再建記」をご覧ください)

 2年のブランク(靱帯が切れたまま1年間、無理矢理選手生活を送ったので正確には1年)はありましたが、リハビリ後の復帰戦で、いきなり予選1位。このまま優勝すれば全日本選手権出場の切符を手にできるところまできたのに、決勝で失敗し、チャンスを逃してしまいます。
 結果論ですが、このときコーチを付けていれば、違った結果が得てたんじゃないかなぁと思ったりします。

 
選手時代の石田です

 結局、全日本選手権には出られずじまいでしたが、2007年まで選手を続けていました。最高順位は全日本ランキング116位。個別の大会成績は長野県大会で3位。自慢できるほどではないけど、まずまずといったところでしょうか。

 今年(2008)からは選手を退き、専ら子どもや仲間らとのエンジョイ・スキーです。

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